新宿の歴史~内藤新宿~

新宿の歴史~内藤新宿~

2020年3月24日

新宿区の名称の由来は、江戸時代にできた「内藤新宿」という新しい宿場町に由来します。
徳川家康が整備し幕府直轄で管理された“五街道”。その中の一つであり、江戸から下諏訪で中山道と合流する、甲州街道の宿場町として、1698(元禄11)年6月に誕生したのが「内藤新宿」です。

新宿とは、甲州街道に追加で設けられた新しい宿場という意味。主要な街道の第一宿は日本橋からおよそ2里~2里半に置かれていたが、甲州街道の第一宿は日本橋から4里の上・下高井戸宿であったため、間を埋める格好で宿場町が形成されました。

かつての「内藤新宿」の場所は新宿御苑の北側一帯、1698年に、信州高遠藩主内藤氏の下屋敷に甲州道中の宿駅として内藤新宿が設けられたのが「新宿」の始まりです。

ではどのように、新宿という街ができていったのかを見ていきたいと思います。

新宿誕生以前

都市としてのインフラは整備され始めていた

江戸幕府が開かれ江戸城が整備されると、江戸への物資や人の流れは甲州街道や青梅街道の整備に繋がりました。

甲州街道には四谷大木戸が設けられ、その脇に馬改番屋が番屋が設置されたり、玉川上水も完成しました。

内藤新宿誕生以前に、すでに四谷では人や物の出入りの警備、町の整備、上下水道整備など、都市としてのインフラが次第に整備されつつありました。

四谷の隣接地域でも甲州街道・青梅街道の分岐点に人が集まり始め、すでに宿場町の様相が出始めていました。

内藤家の逸話

徳川家康が江戸入りした天正十八年(1590年)、内藤家の祖である内藤清成が現在の新宿御苑を含む広大な土地を屋敷として拝領しました。

この拝領に際しては伝説的な逸話が残されています。

家康が「馬一息で駆け巡るだけの範囲を与える」と伝えたため、清成は馬に乗り榎の大木を中心に東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を駆け、その馬はついに倒れて、まもなく死んでしまったというエピソードがあります。

この逸話は当時このあたりに人家がほとんどなかったということを意味しています。
そして当時の関東奉行という要職にあった内藤家が、ここに屋敷を拝領したという事実は、江戸にとってこの地が重要な土地であったことを意味しています。

宿場町「内藤新宿」に

浅草阿部川町(現在の台東区元浅草三、四丁目の一部)の名主であった高松喜兵衛など5名の浅草商人らの願いと莫大な上納金により、元禄12年(1699年)宿場として「内藤新宿」が開設されました。

宿場名である内藤新宿は、以前よりこの付近にあった「内藤宿」に由来します。
品川、板橋、千住と共に「江戸4宿」と呼ばれ、甲州街道の宿場である内藤新宿が誕生しました。
江戸からは最初の、江戸へは最後の宿場でした。

「内藤新宿」の宿場町が形成されていたのは、「四谷大木戸(現・四谷四丁目交差点)」から「追分(現・「伊勢丹新宿店」前)」の周辺まででした。その光景を、浮世絵師・歌川広重が「名所江戸百景」の一枚「四ツ谷内藤新宿」に描いています。

内藤新宿の南側を流れる玉川上水あたりは、桜の名所となっていました。右の建物には、飯盛り女らしき姿が見えます。
左には桜並木に沿って、内藤家の下屋敷と、家臣たちの住む武家屋敷が連なっています。

内藤新宿の発展

内藤新宿の繁栄を支えたひとつは、旅旅籠、茶屋の存在でした。宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていきました。宿場に遊女を置くことは認められていませんでしたが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていました。
こうして内藤新宿は江戸均衡の雄興の地として位置づけられていきました。

江戸時代の宿場は大名たちの通行や宿泊として用いられることが普通ですが、甲州街道は大名や武家の通行が少なかったため、庶民の道としての役割が大きかったようです。

旅籠や茶屋に代表される雄興地であり、庶民のための商品の流通拠点であることが、内藤新宿の発展を支えた要因になっていると考えられます。

新宿の性質は、内藤新宿誕生以前からできており、また今日の繁華街である新宿に繋がっている点は興味深いといえるのではないでしょうか。

内藤新宿の廃止

享保3年(1718年)10月、内藤新宿は幕府によって廃止されました。宿場開設より20年足らずでの決定でした。このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となりました。廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、宿場としての機能は失われました。

この陰には、宿場としてより岡場所として賑わっていため、その改革に伴う風紀取締りの一環として廃止されたと考えられています。

内藤新宿の再開

再三の再開の申し出がありましたが、品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪化によりなかなか認められず、明和9年(1772年)4月、内藤新宿が再開されることになりました。50数年ぶりの再開でした。

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、現在では内藤新宿という地名は残っていないものの、「新宿」として今日に至っています。

出典:GFDL, 内藤新宿 – Wikipedia

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