新宿の歴史~高田馬場~

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新宿の歴史~高田馬場~ 高田馬場の歴史

新宿区で学生の街といういうと高田馬場です。
高田馬場駅周辺には早稲田大学をはじめ、各種学校や専門学校があり、学生たちの姿をよく見かけます。

そんな高田馬場駅は明治43年(1910年)9月に開設されました。

高田馬場駅の開設

駅名を「高田馬場」に決めたのは、国鉄の前身の鉄道院が赤穂義士のひとり堀部安兵衛の助太刀の現場に近いということで決められました。
(本来の高田馬場とは、西早稲田三丁目で、江戸時代に「高田馬場の決闘」が戦われた地です。)

※高田馬場の決闘とは
元禄7年(1694年)2月11日に江戸郊外戸塚村の高田馬場(現 新宿区西早稲田)で起きた、伊予国西条藩松平頼純の家臣、菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘。中山安兵衛こと堀部武庸(通称:安兵衛)が菅野に助太刀して名を挙げたことで有名。

 

広重「名所江戸百景」に描かれた高田馬場

広重「名所江戸百景」に描かれた高田馬場

高田馬場の名の由来

1636年、徳川三代将軍家光により旗本達の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営されました。

由来の説はいくつかあります。

1つめは「高田藩主」の名前によるもの

この地が家康の六男で越後高田藩主だった松平忠輝の生母、高田殿(茶阿局)の遊覧地(景色のよい遠望を楽しむために庭園を開いた所)であったことから、高田の名をとって「高田馬場」としたと言われています。

2つめは「高台である地形」によるもの

ところが、それ以前に、この一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたこともあります。

1つめと2つめが合体したという説

その名を冠したとの説、その2つの由来が重なったためとの説もある。

3つめ 高田村の飛び地説

高田村の飛び地があったためとも言われています

高田馬場は「たかだのばば」「たかたのばば」どっち?

駅名案ができたとき、地元の人たちが「高田馬場」にすると、近くに馬場があると勘違いするということで猛反対したことがありました。
これに対し、鉄道院は、馬場跡は「たかたのばば」で、駅名は「たかだのばば」である!と、案を通したそうです。

史跡の高田馬場は慣習的に「たかたのばば」と呼ばれ、付近の通称地名もこのように呼ばれていましたが、駅名等の浸透により「たかだのばば」が一般化しています。

ちなみに落語の演目『高田馬場(高田の馬場)』では「たかたのばば」、大手銀行支店名や郵便局名では、三菱UFJ銀行とみずほ銀行が「たかたのばば」、三井住友銀行と郵便局が「たかだのばば」の呼称を使用しています。

東京・小石川に生まれた作家の永井荷風は日記『断腸亭日乗』の中で「…秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。高田の馬場もタカダと濁りて訓む」と記し、秋葉原を「あきはばら」、高田馬場を「たかだのばば」と読ませるのは、鉄道省の役人に東京の地名に疎い田舎者が多いからだろうと評しているそうです。

高田馬場の発展

高田馬場駅ができたころの風景は、田園風景が広がる農村地帯でした。今では考えられない風景です。

昭和2年(1927年)には西武鉄道が開通。
それに伴い駅前は発展し始め、早稲田大学の玄関口として学生の街の賑わいを見せていきます。

昭和24年には都電が早稲田から駅前に延長され、昭和43年まで学生の足になりました。
昭和39年には地下鉄東西線が開通されました。
依頼、急速に駅前は整備され、広場を囲むように多くのビルが他の並ぶ今の高田馬場の風景へと変貌していきます。

 

全国屈指の学生街 高田馬場

高田馬場は多くの大学・専門学校・予備校が集まっており、高田馬場駅付近は全国屈指の学生街を形成しています。

他の学生街同様、飲食店は総じて低価格であり、近年では駅周辺から西早稲田方面にかけて早稲田通り沿い一帯がラーメン激戦区として知られています。

例年10月中旬に「大高田馬場祭り」が行われ、サンバチームが招かれるなど、大勢の観客で賑わいを見せています。

出典:高田馬場|Wikipedia